こんにちは、モイヘアサロン松枝です。
ヘナや湯シャンに興味のある方にとっては
ちょっと意外なテーマかもしれません。笑
今回の体験は、美容とも日々の暮らしとも、
静かに、しっかりとつながっている気がしてます。
奈良県にある大峰山(おおみねさん)という山をご存知でしょうか?
そこへお坊さんと一緒に「山上参り」というものをしてきました。
観光登山ではなく
いわゆる修験道(しゅげんどう)という
山岳修行の一種。
今回はその体験を通じて感じたことを、ゆるっと書いていきます。

まず、大峰山についてざっくりご紹介すると、
奈良県吉野郡にある標高1,719mの山で、
日本古来の山岳信仰「修験道」の聖地のひとつです。
修験道をものすごく簡単に言うと、
「山に入って、自分と向き合い、自然の中で心身を整える」修行スタイルのこと。
登山道というより“行場”
途中には祈りの場や鎖場(くさりば)もあったりして、
山に登るというより、自分を整えながら登っていく感覚。
その道のりを、
今回はお坊さんたちと一緒に歩かせてもらいました。

この山の特徴として、現在も「女人禁制」というルールがあります。
これは、山上ヶ岳(さんじょうがたけ)というエリアに限られてはいますが、
女性は登れないとされています。
現地で感じたのは、これは“女性を排除する”ためというより、
特定の儀式や修行を保つための区切りとしての文化だということ。
だからこそ1000年以上も守られている。
もちろん賛否あると思いますし、これが「正しい」と言いたいわけではありません。
ただ、「なぜそうなっているのか」
を肌で感じに行くことに意味があるような
気がします。

登山といえばトレッキングポール、と思いきや。
ここでは「金剛杖(こんごうづえ)」という、修行用の杖を使います。
ただの棒かと思いきや、これが意外と心強い。
道中で足元がぐらついた時にも支えになるし、
何より、地面を一歩一歩突いていく音が
自分のリズムを整えてくれるんです。
身体の芯と自然のリズムが、だんだん合ってくる感じ。
途中から不思議と、自分の身体の一部のように感じ
安心できる存在でした。

修行の最中、何度も唱える言葉があります。
それが「さんげさんげ、ろっこんしょうじょう」。
ざっくり言うと「煩悩を手放して、感覚を清めます」という意味。
六根とは、目・耳・鼻・舌・身体・心。
つまり、私たちが感じ取るためのすべてのセンサーのこと。
それらにたまったモヤモヤをリセットするために
この言葉を繰り返し唱えながら歩きます。
最初は照れくさかったですが、
1時間も登ってると、だんだん意味が身体に染み込んでくるような感じがし
呼吸の問題なのか?
唱えている時のほうが楽に登れるようになります。

そして今回、特に印象に残った行場のひとつが「西の覗き(にしののぞき)」です。
これは山上ヶ岳の山頂近くにある名所で、
命綱を肩に巻いて、絶壁の上から遥か下を
“覗かされる”という修行です。
文字にするとちょっとしたアトラクションのようですが
僧侶に後ろから支えられながら、身体を反らし、崖下を覗く
そのときに「おまえ、本当に生まれ変わる気があるのか?」と問われるんです
もう、怖いとかそういう次元じゃないです。笑
景色は絶景。でも、目の前は奈落。
この瞬間、自分の中の「命にしがみつく感覚」がむき出しになります。
「怖さ」と向き合うことは、つまり「執着」と向き合うことなのかもしれません。
ここでもまた、自分の考えや、心の脳の輪郭がはっきりしていく体験です。
聖なるコンセントにプラグを差す。
登っていくうちに、教わったのは
聖なるコンセントにプラグを差さないとという事。
もちろん物理的にあるわけじゃありません!笑
山の上で深呼吸する
土、草の上を歩く
岩を登る
祈りをささげる事で
充電されていくような
都会ではなかなか得られない感覚。
山の中では、ただ風の音を聞いてるだけで、何かが満たされていく。
それはきっと、身体が「自然との接続」を
どこかで求めているからかもしれません。
意識しなきゃ見つけられないし、感じられない
登った人にしか、体感できない事が
聖地にはあります。

登りにかかった時間は約4時間。
正直、なかなかハードです。
息もあがって、途中で何度も「まだまだあるなぁ」と思いました。
不思議なのが、山頂に着いたときのスッキリ感。
疲れてるのに、どこか整ってる。
身体はクタクタなのに、心は澄んでる。
これって、湯シャンの後の頭皮みたいな感じかもしれません。笑
ゴシゴシ洗ってないのに、なぜか整ってる、みたいな。


山を降りる前に「九重守り(ここのえまもり)」というお守りをいただきました。
九つの願いが込められていて
それぞれが日常の中で自分を支えてくれると言われています。
とはいえ、守りに頼りすぎるのではなく、
自分の輪郭をちゃんと感じていくことが大事であって
その感覚を忘れないよう
あくまで思い出す為のツールなのかもしれません。

都会と自然を行き来することは
自分の輪郭を取り戻すということ。
都会では、自分の境界線が曖昧になります。
情報も人間関係も、どこかなだれ込んでくる感じがあって、自分の芯がぼやけやすい。
自分が本当に思っている事
大切な事、必要なもの、守られている事、
便利な事、忘れていた事、
ルーティンや常識や普通、みたいな事は
安定に繋がりますが
輪郭の外に出ると
また違う視点に立てることもあるし
改めて輪郭の内側で安定している事にも
感謝できます。
自然の中に身を置くと、自分の輪郭がゆっくり浮かび上がってきます。
それは、何かを考えるというより、
“思い出す、取り戻す”感覚に近いです。

美容室での時間
髪の手触りや香り、音や会話
美容室という日時の中にある時間の中でも
少しだけゆっくり立ち止まれる時間。
自分という存在を感じるための感覚の入り口なのかもしれません。
今回の山上参りで体験した
「六根清浄」や「金剛杖」や「西の覗き」、そして「聖なるコンセント」は、
まさにその延長線上にあるものでした。
自然と触れ、自分を整え、また街に戻る。
この繰り返しの中で、人は少しずつ、自分の形を思い出していくのかもしれません。
今回の大峰山も、前回のスリランカも
そうだったように
日常で、ふと息を抜きたくなったら
意識的に、輪郭の外にでてみる
自然に触れてみる事、違う環境に身を置いてみる事
いい経験になりました。